2016/07/20 10:51

神仏など微塵も興味など無く、仏壇に手を合わせたことも無く、初詣以外に神社に行くことはありえないタイプの人間だった。


神仏を真剣に信仰してる者を馬鹿にさえしていた。


KUTAビーチ。95年12月5日ラマダン(午前2時頃)の啓示(あるいわ神秘体験)が無ければ、今でも平均的な日本人の様に日本で暮らし、毎日神に向き合うことも無く、食事の度に主に感謝することも無く、己の弱さゆえ犯してしまった罪の許しを請うことも無く、悔悟せず、主を畏れず、人生の真理(意味)を探求しようなどとは考えもしなかっただろう。その180度逆の人生だった可能性が高い(守銭奴的生き方)


神(超自然)の存在を否定出来なくなる程の凄まじく強烈な体験をすると、それまで培ってきた常識や知識などは完全に崩壊してしまう。ものの見方、考え方、人生観、その他全てが大きく変わってしまう。そして痛烈な孤独感。。。その後半年くらい何も手につかず妄想ばかりしていた。


たとえば数年前の大津波など何か大きな災厄など起こると、なぜ神はこのような災厄を人類にもたらしたのか?これにはどのような意味が隠されているのか?。。。インドネシアを例に取れば、多くのテロや死者を出し続けて来た悲惨なァチェ分離独立戦争(政府VSァチェ)解決不可能といわれたこの戦争が、大津波一撃で解決を見た。


イラク戦争真っ只中で世界中が殺伐としていた時期に各国が協力して被災地の被災者を救出せざるおえず、世界に対しイラク戦争のくだらなさ無意味さ馬鹿さ加減を浮き彫りにした。


アーティストとして(宗教家とかではなく普遍的な立場)神(超自然)の表現と探求を続けて行くという道が無ければ、気が狂っていたかもしれない。


神という字(インスピレーション)を10回書けば、十通りの形の違う書になる。(各宗教の意味もある)しかし神(超自然)そのものの本質は変わることは無い。これは己のフィロソフィーでもある。


暗室の像という話がある。これはスーフィー(イスラム神秘主義)の中でも、仏教の中でも師から求道者に語られる話。暗室に像がおり、それぞれの町から3人の長老(像など見たことも無い人々)がこの暗室に招かれた。それぞれの長老はそれぞれに像の一部分に触れ、そのイメージをそれぞれの町に持ち帰って人々に告げ知らせた。ある長老は像とは柱のような生き物だといい(足)、ある長老は像とはじゅうたん(耳)の様な生き物だといい、ある長老は像とは長く太い縄(鼻)のような生き物だと告げた。それぞれの長老は像の一部分のみを理解し、その全体像(本質)を理解することが出来なかった為、それぞれの町の人々は誤った認識で像をとらえることになってしまった。。。(このような話だったと思う)

 

以前天才ホーキンス博士の宇宙に関する講義をTVでみてて、最後に博士は、人類は神の御手はもしかすると理解できるかもしれないが、御心は永遠にわからない。といっていたのが印象的だった。