2016/07/07 01:37


福永武彦著「ゴーギャンの世界」を久しぶりに読み返してみた。この本は昔たまたま通りかかった古本屋で見付けた。ゴーギャンの内面を考察した素晴らしい本で、たまたま読み返してきた。特にネガティブな気持ちになった時などは、この本に助けられた。ゴーギャンについてはいろいろ言われているが、最終的にARTサクリファイスしたのは事実だ。


ゴーギャンはプリミティブ(野蛮???)や原始美術などの芸術性を認め、それらにに影響されたARTIST。俺と似ている部分も多いように感じられ他人の気がしない。個人的にインドネシアのプリミティブアート(仮面、武器、アクセサリー、木彫り。。。)が好きで、そういうものを趣味で集めていたこともある。それらの作品を拝見する時に、どのような能書きも要らない。スーッと魂の奥深くに暖かいものが入ってくる感じがあり、魂の根源的な部分を揺さぶられ、癒される。


彼らは売ることなど微塵も考えず、純粋に生活の道具、生活を潤すものとしてそれらを創作した。もちろん彫刻刀など無いので、作品を創作するための道具から製作しなければならない。つまり道具も含め100%彼ら自身の手によって創作されている。こういうものが本物の芸術だと考えている。小奇麗でちゃらちゃらした見掛け倒しの模倣ものなどは、そういう作品の前では何のインパクトも価値も無い。


ただ残念なことにそういうものがARTとされ、そういうものを作る者がARTISTと呼ばれ、売れるのが現実。ゴーギャンのように純粋にARTを追及すれば現世ではなかなか報われない。(途中から変わったにしても、、)


以前ドキュメンタリーフィルムの中で、DALIが”私は駄作を描き続けたことで成功し、生き延びることができた。もしフェルメールやベラスケスのような作風だったら、私はとっくの昔にこの世にいなかっただろう”といっていたのが印象的だったが、現実的には、そうなのかもしれない。ある意味オーディエンス(大半の)を小ばかにした発言とも取れるが。。。無条件に人の魂を揺さぶるような作品は、己自身の魂を削り取った作品(良くも悪くも)でしか有り得ない。


その作品を誰が創作したかではなく、作品そのものから受けるインパクトによって作品を見る目(心眼)を持たない限り、ゴーギャンのようなARTISTARTが浮かばれる事は無い。あれから100年経っても変わらないんだから。。。


以前日記に書いたナイフのエッジの上を歩く覚悟が無ければARTISTではないというのは、そういうことを言いたかった。


現在において書というのは、凄く斬新でCOOLな表現スタイルだと信じている。一瞬の心根を永遠に閉じ込める。という点で西洋絵画と違いやり直しは利かず失敗は許されないので、その一瞬の為に、多くの時間を費やし、心のバランスを整え無ければならない。俺はそうしている。しかし精神的にベストな状況を作り出すことは容易ではない。祈りや座禅などするが、それらによって常に心が静寂(無)するわけではない。無の境地を創り上げなければ、作品を現象させる事はできない。ある意味ひじょうに斬新であり、ひじょうにプリミティブとも言える。


俺の書は、すべての余分を取り除いた純粋な心根の現象に重きを置いている。純粋である為には、既存のあらゆるルールに縛られてはならず、首尾一貫して同じテーマを探求表現し続けること(死ぬまで)が必要だと信じて取り組んでいる。書は「神」(普遍的な意味)のみを死ぬまで表現し続ける覚悟。


今までなかなか思うように作品を人々に見て頂く機会に恵まれていないので、今後そういう環境を探すことが不可欠。作品は多くの人々に見てもらってこそ生かされるので。。。